父とのストーリー<完結編>

9月7日に、父が永眠いたしました。

腸炎をきっかけに入院して車椅子生活となり、病院そして介護老人保健施設で過ごしていたこの2年間。誤嚥性肺炎を繰り返しているうちに、寿命がきたようです。

実家の母から、父が意識不明になったので特別に面会させてもらってきた、どうなるかわからないけれど、覚悟しておいた方がいいかも、と連絡を受けた日(コロナ禍の中、どこもそうだと思いますが、面会もままならない状態ですね)。

JUST本部への出勤日だった私は、AHPにいました。JUST(ジャパン・ユニバーサル・スピリチュアル・セラピー)で事前に調べていた寿命の年齢にはなっていたので、そういうことなのかな、今さらクリアリングするという問題でもないんだろうなあと思ったのですが、稲垣先生からのアドバイスで、ペンデュラムを握ってみることにしました。

穏やかにあちらの世界へ行けるようにするためのクリアリングというのもあるそうです。仕事を切りあげさせてもらい、父のクリアリングをしました。

真っ先に出てきたのは、「堂々としている」というポジティブエネルギーを、インストールしなさいというもの。

なぜなら、神様の恩寵を失っているという思い込みが、父にあるから。そしてそれは、「家族生活」という自分の人生テーマに、真面目に向き合わなかったという気持ちからきていると。「家族生活」の達成度を聞いてみると57%、確かに途中のままです。

あちらの世界に行って、今世のふりかえりをする時に、「神様から叱られる、どうしよう」と、オロオロしていたのでしょうね。だから「堂々としている」を、インストールしなさいというわけです。もともとお葬式自体が苦手な父で、自分の両親の葬儀にも出席していないぐらい、死への恐怖も持っていたため、余計に弱気だったのだと思います。


父が「家族生活」のテーマを達成できていなかったのは、自身の父親(私からすると祖父)との関係が断絶したまま、その心の折り合いもついていないままだったからです。

父が持ち続けていた、「ゆるせない」という実父に対してのエネルギーが出てきました。「孤独」というエネルギーも。母親(私からすると祖母)が亡くなって実父だけになったら、実家には二度と行かないと言っていた父は、実際その通りにして、実父の最後の9年間を会わないまま過ごしました。

私の母は、父がいなくても祖父宅には時々連れて行ってくれたので、そのたびに祖父が孫の私に、「今日はお父さん来ないの?」と必ず聞いてきたことを、今でも覚えています。私は「うん」とうなずくしかなく、答えは9年間同じだったのに、祖父も父から拒絶されていることは薄々わかっていたと思いますが、さびしかったのでしょうね。そして拒絶していた方の父も、実は「孤独」だったと、ペンデュラムが教えてくれたのでした。

「孤独」の連鎖は世代を越えて続き、私の父は、自分の子ども二人(私と私の妹)とも、断絶時期を過ごすことになります。幸いこちらは、父が生きている間に和解できていましたが、父と祖父との関係性は解決していなかったので、そうか、死の間際になって、父はこれが気になっちゃったんですね。

父の根底にあったのは「低自尊心」。そして「自分の感情をコントロールする」という学びもあったのに、それが達成できていなかったこと。感情をコントロールするのが難しくて、人に対してぶっきらぼうになってしまう「ぶっきらぼうプログラム」があったこと。

「クリアしたからね。あっちでおじいちゃんと仲直りしてね。お父さんはたぶん不器用だっただけで、本当は大きな愛を持っている人だから、堂々としてね。来世ではもう少しうまくやってね。」

父の魂にそう語りかけると、「仕事頑張れ」「大好き」とメッセージを返してくれました。現実の父は、「大好き」なんて言葉を軽く言うようなタイプではないので、魂の本質と交流したような気がしました。

肉体のことを何かクリアできないかと、試しに「毒性解放チャート」を開いてみましたが、「もうそういう問題じゃないんだよ」と示すような動きをペンデュラムがします。やはりその時はもう近づいているんだなと悟った瞬間でした。

父が亡くなったのはその数時間後です。
その日のうちに、私は新幹線で金沢に帰省しました。

コロナ禍の不自由さの中、家族の誰も最期を看取ることはできなかったのですが、対面した父は、とても穏やかな顔をしていました。母が最後に面会した時は、意識はないながらも、母がそばにいることを感じていたようで、2回、涙を流していたそうです。久しぶりに近くで会えたことがうれしく、そしてお別れがさびしかったのでしょうね。

母は、この2年でやっと、父と本物の夫婦になれたと言っていました。私が父を憎んでいた時期があったのと同様に、母は母で、父をずっと嫌悪していました。母と父の関係性が変わったのは、父が病院そして介護老人保健施設で過ごすことになったこの2年の間です。

仕事のかたわら、入院直後の数か月は毎日、その後も定期的に、父のもとへ通っていた母。コロナ騒動が始まってからは、そばで付き添うことができないため、手紙をやり取りしていたそうで、ちょっと見せてもらったら、若いカップルみたいなラブラブな内容でした。父がいなくなったことをさびしがっている母の姿が、これまでの長年の経緯からすると、娘の私にはうれしい衝撃です。
 

母と父には、この離れている2年間が、必要だったんですね。もしピンピンコロリだったら、こうはいかなかったでしょう。私の妹も、この2年がなければ、父と断絶したままだったといいます。「終わり良ければすべて良し」とは、このことですね。家族全員で、それぞれ父に対するわだかまりはもう何もなく、見送ることができて、宇宙の計らいのこの2年に、そして父に、感謝の気持ちでいっぱいでした。


心残りのない人生を送るためには(あちらの世界に行ってオロオロしないためにも)、向き合うべき人生の学びから逃げないことが大切ですね。

 

父から最後に、これを教わった気がします。

 

 

 

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完結編にいたるまでの父とのマイライフストーリーをこちらに書いています。

・ご挨拶 ~message~

・私のSRT体験談~天職に導いてくれたSRT・前編~

・ギックリ腰と11%の○○

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2020年10月31日 | Posted in My Life Story | タグ: , , , , , , Comments Closed 

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